1章:加納恵子教授が歩んできた道。幸せにつながる道は、小さな挑戦の連続だった!?

 

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『好きなコトを仕事にしながら、社会の第一線で魅力を開花してる人にインタビュー』

 

第3回目のゲストの方は、👉関西大学社会学部 加納恵子教授(愛称:恵子先生)です。

1章では、恵子先生の子ども時代を旅しながら、恵子先生の魅力開花の始まりを探っていきます。

 

こども時代の加納恵子教授の人生から魅力開花のコツを探す旅にでかけましょう。

1.ポリオにかかった時のお話

 

いえだゆう
子供の頃はどんなお子さんだったんですか?

恵子先生
元気な女の子で生まれたみたいですが、2歳半の時にポリオにかかったんです。

あの頃(先生が小さかった1960年頃)は、ポリオが流行していました。

その中でも、私の症状は重く、頭以外、全身に麻痺が出ました。

そこから1年間の入院生活が始まり、その結果、身体の大体の機能は回復していきました。

入院中に、再度、首がすわり、腰が据わり、立つことができて、歩いて、って感じだったんですけど、運動神経の一部に受けた障害は治らず、

右手と軽度左足に麻痺が残ってしまったんです。

だから、物心ついてからの私の人生は、ポリオとともにあります。

 

そうだったんですね。

ところで、ポリオとは、どのような病気なのでしょうか?

 

ポリオとは、ポリオウイルスがヒトの口の中に入って、

腸の中で増える事で感染する病気であり、乳幼児にかかる事が多く、

日本では、1960年頃に大流行となったようです。

ポリオウイルスに感染しても、

多くの場合、病気としての明らかな症状は表れないようですが、

腸管に入ったウイルスが脊髄の一部に入り込むと、手や足に麻痺があらわれ、

その麻痺が一生残ってしまうことがあるようです。

麻痺が出現した場合、

現在の医療では、麻痺の進行を止めたり、回復させる治療法はなく、

リハビリテーションによって、残された機能を最大限に活用するしかないようです。

一方で、生ポリオワクチンの導入により、流行はおさまり、

1980年以降、

野生(ワクチンによらない)のポリオウイルスによる新たな患者は出現していないようです。

 

ポリオにかかってしまい、

恵子先生の右手と左足には、一生、回復しない麻痺が残ってしまいました。

 

2.恵子先生の人生に影響を及ぼした母の存在

 

右手と左足に麻痺が残ってしまった恵子先生は、

自分の障害にどのように向き合っていかれたのでしょうか?

 

恵子先生
小学校の時までは、結構、学校も休んで母とともに全国各地、「いい先生がいる」と言われたら、その先生のところに行ってみてもらうという生活を送っていました。

母は自分の責任と思ってるから、麻痺が治るように、ありとあらゆる手を尽くしてくれて、とにかく必死でした。

 

 

二人で全国津々浦々、障害を治してくれる名医の噂を聞けば、わずかな希望にかけて会いに行っていたようです。

 

 

恵子先生
本当に、母は色々なことを試してくれて、やれることはやりました。

でも、障害は治らなかった。

 

 

とにかく一生懸命、恵子先生のために、手を尽くしてくれたお母さんですが、

ポリオに感染して麻痺が出てしまった場合、現代の医療では、二度と機能を回復させることは不可能だったようです。

 

そのような現実に直面しなければならなかった小学生の恵子先生とお母さん。

受け入れるまでに時間がかかったように思います。

 

恵子先生
その後の母の切り替えがすごいの。

もう二度と治らないと思ってからは、「治らないものは治らない。それなら、やれることをやらそう」

と母が思うようになったの。

 

恵子先生のお母さんは、一生懸命、願ったけど、障害を治す方法はなかった。

それなら、「やれることをやらそう」という方向に切り替え、

お母さん自身が、真っ先に、前向きに現実を受け入れられるようになったようです。

その結果、

 

恵子先生
あかんもんはあかん。動かんもんは動かん。私の中にも、くよくよ感が全くない。

気さくな母の影響ですね(^^♪

 

 

そして、明るく、「実はね」と子どもの頃の夢を語ってくれました。

 

恵子先生
私、幼稚園の頃、バレリーナになりたいと思っていたの。

でも、だんだん気づくんですよね。小2ぐらいかなー。

バレリーナにはなれないって(>_<)

じゃあ、現実として、どう生きようかな~?みたいなことを考え始めたのは。

 

いえだゆうは、「自分と向き合う時期がとても早いな~」と驚きました。

小学2年生と言えば、この先の自分の人生を考えるより、ただただ、目の前の遊びに夢中になっている時期。

「私の小学2年生の頃って、どんな感じだったかな?」と思い出してみましたが、あまり、記憶が残っていません(>_<)

両親や先生の言われたことをやり、友達と遊ぶという受け身的な生活をしていたと思います。

その時期に、自分の人生に向き合い始めた恵子先生のすごさを感じました。

 

先生は、

「母は、自分が可哀そうな子やとか全然思ってくれないし、やれることはやりなさいって感じやったから。」

「私も母ものんきなんです。」と語られ、素敵なお母さんの支えがあったからこそ、今の朗らかで天真爛漫な加納恵子先生がいるように感じました(^^♪

3.小3の時の担任の先生に褒められ、掴んだ成功体験

 

恵子先生
あとね、小3の時に出会った先生の存在も大きかったと思います。

実は、小学校に入ったばかりは、少し腫れ物に触る感じの存在だったんです。

でもね、3年生の時の担任は、面白い先生で、私の事をすごくほめてくれたんです。

 

それが、跳び箱!

恵子先生は、右手と左足に麻痺が残っており、

普通なら小学校で取り組む跳び箱にチャレンジすることは考えられないのですが、

なぜか恵子先生は、ぴょんと飛べたそうです。

 

恵子先生
その先生が、「すごいなー」ってすっごくほめてくれて、「あ、そっかそっか」って思ったんです。

こんな風に、やっていったらできるかもって思ったのを今でも覚えています。

 

いえだゆう
跳び箱が飛べたっていうのは大きかったんですね。

 

恵子先生
そうですね。

ただ、跳び箱が飛べたっていうだけなんですけど、何でもダメもとでもやっていったらいいんだなっていう。

なんていうか、成功体験が大きかったと思います。

 

いえだゆう
小3でつかんだんですねー。

 

恵子先生
そうですね。障害があるから、体育はみんなよりできなくて当たり前。

でも、元気な友達の中でも飛べない子もいたんです。

そう。跳び箱を飛ぶには、コツみたいなものがあるんです。

 

嬉しそうに語ってくれた恵子先生!

おそらく、クラス中の誰もが、

恵子先生が跳び箱を飛べるとは思っていたなかったのではないでしょうか?

でも、飛べた。

「ダメもとでも、やってみたらいいんだ」と語られているように、

「やってみたら飛べるかもしれない」という小さな挑戦を先生は始めたんですね。

おそらく、一度や二度ではなかったはず。

誰も気づかないうちに、何度も何度も挑戦し、跳び箱が飛べるようになった!

それまでは、腫れ物に触るような存在だったのに、

自分が努力して、できるようになった頑張りをほめてくれる先生もいる!

恵子先生にとって、小学3年生に出会った先生との出会いは、

その後、

「自分の可能性を信じて進んでいっていいんだ」

という大きな力になっていったっように思われます。

高学年になると、

「障害がある自分を何かでカバーしなければと思っていて、それが勉強かな。」

「ハンディがある時は、他で自分の売りを探すんです」

と笑顔で語られました。

 

「右手と左足が思うように動かない」という弱みを意識し続けているからこそ、

常に「自分の強みは何か?」を追い求め、笑顔の下に、常に人生を力強く歩んでいる恵子先生の姿が垣間見えました。

 

4.いえだゆうの学び

以上、恵子先生の子どもの頃のお話でした。

ご自身のことを「のんきなの」と語る恵子先生の子ども時代は、「のんき」という言葉では語れない逞しい人生でした。

 

そこには、母と一喜一憂しながら、障害と戦い、向き合い、障害を受け入れる人生を選択されてきた恵子先生の姿がありました。

恵子先生は、右手と左足に麻痺がある自分の人生に、真摯に向き合い続け、

「あかんかったら、その時考えましょう」という人生訓を身に付けておられていました。

 

この人生訓を恵子先生はさらっと語られていましたが、

このような言葉を獲得されるまでには、

何度も何度も自分の障害に向き合い、挫折し、また向き合うという

相当な努力が背景にあったように思います。

その向き合う過程で、

恵子先生は、人生を諦めることなく、悲観することなく、嘆くことなく、

「じゃあ、やれることをやっていこう!」と、

ご自身の可能性を信じ、誰もが出来ないと思うようなことでも、

恵子先生なら出来てしまうかも?と思わせてしまうような、

強さを身に付けてこられたのだと思います。

 

その一方で、周りの目から見るといとも容易く、

ぴょんぴょん飛び続けている恵子先生の姿があったように思いました。

 

はー。まさこちゃん!かねちゃん!加納ゼミのみなさま。

すごい先生に出会われ、支えられているのですね(^^♪

笑顔の下に感じるハートの強さ。冷静さ。行動力。

学ぶべきところがたくさんあります。

 

このゆび読者のみなさま。

いかがでしたか?

自分の身に突然ふりかかってきた障害。

恵子先生の場合は、右手と左足の麻痺でしたが、

誰もが、いつどこで何が起こるか分からない。

また、誰の心の中にも、人に言えない弱みを抱えている部分があると思います。

 

そのような時、私たちはどのように、向き合えばいいのでしょうか?

 

恵子先生の人生からの学び

弱みがあると、その弱みばかりに目がいってしまうと思います。

弱みを克服するまで、前に進めない。

もし、恵子先生が、弱みを克服することに拘っていたら、

今の自分は何もできないと悲観的になり、跳び箱に挑戦することもなかったのではないでしょうか?

弱みを克服するまで、目の前の小さな挑戦に向かわなければ、

いつ、幸せに生きる人生につながっていくのでしょうか?

弱みのない強いだけの自分を待っているのであれば、一生進めないのでは?

 

恵子先生は、小学生の時点ですでに、自分には治らない弱みがあることを受け入れました。

その弱みを治すことに拘りつづけるよりも、弱みを抱えながら、

自分の可能性を信じ、小さな挑戦を続ける感覚を身に付けられたんですね!

 

「やれることをやっていこう!」と思って、新たな挑戦をしつづけ、

「そっか、そっか」と自分の中で感覚を掴んでいく。

 

実践し、掴んだ人にしか分からない成功体験。

 

そのような感覚を自分で掴めるかが、

「幸せに生きながら、成果を出せる人になるための重要な視点である」

ということを学ばせて頂きました。

 

このゆび読者のみなさま。

今のあなたは、どんな挑戦をしていますか?

明日のあなたはどんな挑戦をしますか?

 

誰も気づかないくらい小さなことでもいいんです。

とにかく試してみる。

 

その結果、成功すれば、その後のあなたの人生を変える大きな成功体験になります。

失敗したら、「あかんもんはあかんのです。やれることをやってみましょう。」

 

と切り替えればいいんです。

 

大事なことは、自分の可能性を信じ、小さな挑戦をし続けられるか!?

 

それが、成功への秘訣だと思います!

 

いつ、切り替えても遅くない!

今のあなたより半歩前に進んでみませんか?

さあ、あなたは、何から始めますか?

 

告知

2章の告知です。

跳び箱を飛べて成功体験を掴んだ恵子先生!

その後、どんな運命に巻き込まれていくのでしょうか?

 

次回は、あまーい恋のお話♥と言いたいところですが、そうではなかったようです。

でも、確実に今の恵子先生の価値観に影響を及ぼしている経験があります。

 

さてさて、何でしょうか?

みなさま、楽しみにしておいてくださいね(^^♪

 

 

ABOUTこの記事をかいた人

いえだ ゆう

わんぱく男児の育児に奮闘しながら、「ナース・ブロガー・インタビュアー・個人起業」のパラレルキャリアを開拓中!2017年から、「ワクワク・ドキドキ。好きなコト♪」をテーマに活動する「このゆびブログ♪」を運営。様々な人との出会いや経験、言葉から得られた学びをブログに書いています。イラスト担当かげちゃんの絵とともに楽しんで頂ければ幸いです!